9.小春日和
ぽかぽか日差しの温かな秋の午前中、盲導犬と一緒に散歩に出かける。今日は幾つかコースがある内のちょっと短めな距離の保育園までの往復。途中、川沿いの遊歩道がある。その入口にはバイク通り抜け防止のポールが敷設されている。その狭い通り道を盲導犬は私をポールにぶつけることもなく上手に通り抜ける。
前方から子供たちの元気な声が集団で近づいてくる。保育園の子供たちも散歩に出ての帰りだろう。先頭で誘導している保育士が後ろの子供たちに向かって「人が通るのでよってね」と声をかける。それを聞いて心の中でふうっと微笑する。というのも、こうした場合は、「わんちゃんが通るからよってね」とか「見えない人が通るからよってね」という場合がほとんどである。いろんな場面で感じることだが、盲導犬と歩いていると、その存在は犬であったり、見えない人という存在である。なかなか貴方と同じ「人」という存在にはなりえない。そうした中で「人が通りますよ」というのは新鮮に聞こえた。
数日後、夕刻、盲導犬と25分ほど歩いて北大路駅にたどり着き、地下鉄に乗るべく地下への階段を13・17・19段と数え、コンコースへ降り、改札口へと向かっていると小学生の高学年らしい女の子がさりげなくよってきて「お手伝いしましょうか?」と声をかけてくれる。「ありがとう、一人でいけるから」と言葉を返したが、後から考えると「ありがとう、改札口までいくので腕をかしてくれる」といって連れていってもらったら良かったかもしれない。ときどき階段を降りるとき、黙って私が降りるのと調子を合わせて降りる子がいる。大丈夫かと見守っていてくれるのだろう。
ちょうどその時刻、下校時で、多くの子供たちと一緒に駅へ向かう。当初は、「あれ盲導犬やで」「触ったらあかんのやて」などの声も聞こえていたが、近頃では見慣れたのか、そうした声も聞えなくなってきた。
月に数回、同じころに通る存在をさほど意識しなくなってきたのだろう。日常的に目に触れることで自分たちと同じような速さで歩き、信号も渡るのを分かることだろう。
1歩踏み込んで、さりげなく声をかけたり、静かに安全を見守ってくれる子供たちが一人でも多く現れてくれることを願うばかりだ。